恐怖感

恋人でも家族でもそうなんだけど「こうしてくれた方がうれしいな」はかなりの恐怖感を伴う言葉なんじゃないかと思います。

1.要求にともなう恐怖感
例えば、「もっとおいしい料理を作れるように」努力すること。
自発的なら「今も幸せだけど、努力が実ったらもっと幸せになれる」という気持ちで、努力が実るまでの間も幸せでいられます。努力が実ると、プラスの結果が得られます。しかし、要求があってはじめた場合「この努力が実るまで、相手には不満を持たれている」という恐怖に急かされ続けます。努力が実ったところで、マイナスではなくなるだけです。
不満を隠すといずれ破綻する、という意見があります。しかしこれって、不満を持った相手を捨ててしまうから、じゃないでしょうか。つまり、ある条件を満たせないといらない、という考え。

2.言外の納期
要求がされた場合、一見期限が指定されないように見えます。しかし「明確に期限は設けないが、これが満たせないなら不満なのでより早い改善を求める」と言われたのと全く同じです。
失いたくない相手から「不満を持っている」と言われることは、その要求解決に大きいプレッシャーができることを意味します。優先度1です。
つまり、単にメーカーに出すだけ要望を出してみようよ、とはわけが違うんです。

3.話し合いの無意味
じゃあ要求ではなく「自発的に相手を幸せにするための参考材料の提示」のために話し合いをしようよ、なんてナンセンスな意見もそろそろ出るんじゃないかと思います。
私、恋人や家族が話し合いとかするの無意味だと思うんですよ。だってね、直接利害関係のある間柄でアドバイスすると、それはよりよい意見なのか、それとも相手が自分の都合のいい方に誘導してるんじゃないかわかんなくなるでしょ。
恋人のことを恋人に相談できないのと同じ。利害関係のある相手は、(無意識のうちに)自分にとってよりメリットの高い方向へと話を進めたがり、自分もそうなってしまう。欲求を完全に抑えられる人間なんて、希にしか居ないでしょう?
つまり、利害関係のある間柄での「話し合い」は必然的に「陣取り合戦」になってしまうわけです。悟りでも開かないと無理。

−つまり−
より幸せに生きるために、ゆるやかな生活をします。「より不満のない良い生活」をめざして、今の時間をぼろぼろにするのはもうやめます。というか諦めました。